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園区全体のご案内

    ◆園区のマップ(台灣游芸 提供)
地球の悠久の生命史の痕跡が本園区の至るところで見つけられます。考古学的調査によれば、今から4千年前の大昔に、この島には先史時代の人類の活動の跡が発見されました。台湾のオーストロネシアン(南島語族)系諸族には先祖がSanasaiに起源するという伝説がありますが、緑島の元々の名前がSanasaiだったのです。緑島と先史時代のオーストロネシアン文化との関わりは、昔から考古学者や人類学者の関心を引き付けて止まないものがあります。


この地の漢民族住民は200年ほど前に、台湾西南の沖合いにある小琉球島から緑島に移住してきました。この園区の辺りから上陸した後、島の各地に拡散して4つの村落が形作られました。初期の建物は多くは島で伐採された木材の屋根とサンゴ礁から切り取られた石を積んだ壁で出来た低い平屋の民家でした。


日本が台湾を植民地として統治していた時代に、島の流麻溝付近に「火焼島浮浪者収容所」(1911~1919)が作られましたが、戦後中国国民党政権はここに新生訓導処(政治犯収容キャンプ)及び国防部緑島感訓監獄を設けました。戒厳令が1987年に解除された後は、法務部緑島技能訓練所と改称されました。これら異なる時代の刑務所は、それぞれ種々の政治宣伝の刻印を残していったのです。

    ◆公館鼻。公館鼻西側の砂利坂は、考古学調査で先史時代の遺跡であることが判明された。(曹欽栄 撮影)

    ◆公館村南側。公館村は園区の西側にあり、村の南にある田畑には先史時代遺跡の瓦礫や破片が混ざり込んでいる。(曹欽栄 撮影)

    ◆人権記念公園。人権記念公園には緑島人権記念碑が立てられ、白色テロ時代の政治受難者を記念している。(曹欽栄 撮影)


    ◆海巡署庁舎。海巡署庁舎内にある「居安思危」の岩は、当時の新生(政治犯)が積み上げた石垣である。(曹欽栄 撮影)

    ◆「滅共復国」のスローガン。国民党と共産党が内戦を戦っていた当時、「共産党を消滅し、国を復興しよう」という意味のスローガン。(曹欽栄 撮影)

    ◆三峰岩/将軍岩。将軍岩と三峰岩は園区入口のランドマークになっている。(劉振祥 撮影。台灣游藝 提供)

    ◆象鼻岩/鬼門関。国防部緑島感訓監獄正門向いの象鼻岩を受難者たちは鬼門関と呼んだ。それは生きて帰れる希望の持てない「新生訓導処」へ通じる場所であったから。(曹欽栄 撮影)

    ◆緑洲山荘石。1970年に建てられた緑洲山荘の前には、「緑洲山荘」と刻み込まれた巨石が立てられた。(曹欽栄 撮影)

    ◆国防部緑島感訓監獄(緑洲山荘)。国防部緑島感訓監獄全景。山荘とは名だけの政治犯を収容した恐怖の監獄であった。(潘小俠 撮影.台灣游芸 提供)

    ◆新生訓導処。1950年代の新生訓導処。(陳孟和 撮影)

    ◆毋忘在莒。「莒に在るを忘る勿れ」という成語は、2300年前中国の戦国時代に斉の将軍田単が莒県と即墨の2城を擁して燕と戦い、復国を果たした故事による。(曹欽栄 撮影)

    ◆緑島技能訓練所。赤い瓦屋根の建物は2002年12月31日に緑島から撤去した緑島技能訓練所(敬徳山荘)。(曹欽栄 撮影)

    ◆慈航宮。慈航宮は1985年に緑島指揮部第3職訓総隊が建立したもの。近くに新生訓導処時代に石炭殻を埋棄した場所がある。(曹欽栄 撮影)

    ◆流麻溝河口(海への出口)。園区東側を流れる流麻溝はこの河口から海に注いでいる。昔は水量が豊富で、鰻や種々の魚類、蝦などが取れた。(曹欽栄 撮影)


    ◆石切り場。緑島技能訓練所北側のサンゴ礁から西は緑洲山荘沿岸に及ぶ一帯は、昔新生訓導処時代の石切り場(政治犯が石を切りとって石垣や石壁の小屋を建てた)。(曹欽栄 撮影)

    ◆十三中隊。新生訓導処は全部で12個中隊で構成されてあったが、前後15年の間に政治犯や監獄管理に当っていた将校・兵卒の中から死亡者が出てこの場所に埋葬され、第13中隊と呼ばれた。(曹欽栄 撮影)

    ◆燕子洞。燕子洞は海蝕によってできた天然の洞穴で、当時政治犯はこの場所を演劇のリハーサル、死者の火葬などに使った。洞穴の中には今でも政治犯が石で積み上げた舞台が残っている。(曹欽栄 撮影)



    ◆牛頭山。牛頭山上から眺望した園区海岸の夕映え。(曹欽栄 撮影)

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