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新生訓導処(1951-1965)

緑島新生訓導処は1950年代初期に、台湾の政治犯を収容した最大の強制労働キャンプでした。15年間、「政治犯」はこのキャンプに監禁され、洗脳および過酷な強制労働に従事させられました。収容人数は最盛期で2000人に上り、12個中隊に編成されました。1951年から1954年までの間には100人近い女性政治犯から成る女生分隊(第8中隊)があり、その他に一時は中国沿海の島から捉えられてきた捕虜をも
収容していました。収容された政治犯に加えて、管理に当っていた部隊の将兵全部を入れて人数は全部で3000人に達しました。政治犯は夜は粗末なバラック建ての営舎に監禁され、昼間は洗脳教育を受けたり、山で萱を刈ったり、海辺で石を切ったりして重労働に従事し、当初は石壁茅葺きの小屋を建て、畑を開墾する仕事を主にさせられていました。
新生訓導処は当初厳格な軍事管理の下に置かれ、朝鮮戦争が終息した頃、管理当局は「一人一事良心救国運動」キャンペーンを発動し、収容者に「自ら志願して」体に「反共抗ソ」などの政治スローガンを入墨するよう無理強いしました。この運動は失敗に終わったため、管理当局は収容者の一部を台湾本島の軍人監獄に返送し、19537月には「緑島新生訓導処再叛乱」と呼ぶ事実無根の事件をでち上げ、14人の若者(多くは高校生・大学生)
を銃殺刑に処しました。新生訓導処に収容された政治犯は、刑期が終了しても「思想未だ改正せず」などの理由で小琉球職業訓練総隊に送られ数年の労役に服させられました。米ソ対抗の冷戦時代、新生訓導処はアジアで一番典型的な反共を旗印に掲げた「政治犯強制収容所」だったのです。

陳孟和氏は新生訓導処に15年間(1952-1987)幽閉された経歴の持ち主であるが、2002年、氏が72歳の夏に、昔の記憶を辿りながら震える手で一筆一筆新生訓導処全景の鳥瞰図を描き上げた。画面は北から南に向う空中からの鳥瞰図で、1951-1965年間の新生訓導処の全貌を余す所なく描き上げている。(上、陳孟和絵)

遺跡及び古い写真の説明

    象鼻岩―鬼門関。象鼻岩は恰も象の鼻のようにドーム状をした海蝕洞穴の外廓で、脇には巨大な岩石がそそり立ち、丁度関所の入り口のような印象を与えている。公館から東に進み、象鼻岩を過ぎた所から新生訓導処の管轄下に入る。長い歳月をそこに幽閉された政治犯達が象鼻岩を称して鬼門関と呼ぶのも故あるかなである。(曹欽栄 撮影)

    象鼻岩―鬼門関。(陳孟和 撮影)

    石垣(万里の長城)。新生訓導処の初期に受難者は浜辺で石を切取り、それを積上げて高さが人間一人半位の石垣を築いて自分達が監禁されてある営舎を囲み、それを万里の長城と呼ばれた。今は60メートル位の跡しか残っていない。(曹欽栄 撮影)

    ◆石垣(万里の長城)。古い写真は新生訓導処の運動会の際に撮ったもので、正門前のトーチカ脇に続く石垣が万里の長城である。(王春長提供)

    四維峰下。1950年代には新生訓導処第2大隊背後に巨石があり「四維峰下」と呼ばれていた。現在は塀の外に遮られてある。政治受難者の回憶によれば、「四維峰下」は訓導処内で唯一海を眺望できる場所であり、あずま屋の中には石卓と石の腰掛が設けられていて将棋をさすことが出来たという。(曹欽栄 撮影)

    ◆四維峰下。(陳孟和 撮影)

    ◆茅葺き石壁の小屋。政治犯が浜辺で切取った石を積んで立てた小屋、困難に打克って建てた家という意味で「克難房」と呼ばれ、糧食の貯蔵、畑で農具や厨房用具の置場、養豚養鶏用の豚舎や鶏舎として使われた。多い時にはこのような「克難房」が百棟以上もあった。(曹欽栄 撮影)

    ◆茅葺き石壁の小屋。(曹欽栄 撮影)

    ◆トーチカ。新生訓導処周辺に散在していたトーチカは、受難者を監視するために構築されたもので、時には処内で何らかの罪を犯したと認められた受難者を監禁するために使われた。写真の中のトーチカは海辺の陸地の上昇により、半分土に埋もれている。浜辺に近いトーチカは海水が浸入して、監禁された者にとっては「水牢」となる。(曹欽栄 撮影)

    ◆福利社(売店)跡地。新生訓導処福利社(売店)の写真部。2007年に改築した後の写真。(曹欽栄 撮影)

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